これは私が韓国伝統舞踊を観て思ったことをまとめた草稿であり、私の部分的な観測による初歩的な「推論 」である。文中の用語も学術的なもの拘らず、私自身の定義によって記述している。よって、以下に書いたことが、結果的に全て間違っている可能性もある。ご批判・ご指摘・ご教示・ご意見を望みます—
○韓国伝統舞踊を観て思うこと
I、身体の秘匿と部分的露出—だが、情念的である
手首から足首までを覆っている。その衣装は、日本舞踊・歌舞伎舞踊の扮装の方がむしろ身体の露出が多い。「禁欲的」であり、身体の固着性を極限まで隠し切っているかのようである。
だが、そのパフォーパフォーマンス全体のありようを見ると、それは極めて具象的・直接的な印象を受ける。肉体に固着した情念・エロースの表現をも、そこに見てとる事ができる。
その体位・フォームは独特である。恐らくそのチマチョゴリの衣装の中の足は、武道家のように動いているのだろだろう。腰を入れる、というよりも、おそらく、これは推測だが、かがんでいる。間違っている可能性は大だか、ほぼ・屈んでいる姿勢で、体幹を起き上がらせているだろう。脚の歩幅は恐らく、実は、広い。脚が、中国の古武道のように比較的大股で大地を掴んで動いているのではないか? だが、それを、衣装に隠して、全く見せない。見せる時は、その足首の一部のみを見せるのだ。その動きは、小さい。見せる歩幅は、可愛らしいほど狭い。隠れているところで大きく動き、見せるところで最小の動きにとどめることで、観る物に対する「効果」を最大化している。その魅力は、「私達」の感じ方からすると、ともすれば・・・蠱惑的ですらある。
II、身体感覚の秘匿と部分的露出
その独特のありようは、リズムの捉え方にも表れているように思える。体の動きは一見リズムを無視しているかのようだ。だが、よくみると、「肩」がリズムを受け脈動している。その動きを見て、「私」の身体感覚を同調させると、どうも、—裏間—を捕まえているように感じる。こう言ってよければ、そのバルーンのように身体を丸ごと隠す衣装の中で、身体にリズムを浸し、裏間のノリを持続しながら、それを隠し続け、観客には肩のみでそのかすかな痕跡がそれとなく提示される。・・・密かに—煽っているかのようにも思える。・・・そして、ある瞬間に、身体の中、肩で捕まえているリズムを、抑制の取れた小さな上品なやり方で、腕と手の動き、肩と首の連動した動作で「爆発」させる。それは他の舞踊・ダンスの動作からすれば、極小な動きではあろう。だが、観客に対するその効果は、中々優れている。
III、演出の明快さ
観る側に伝えるのに、このように難度の高い表現を駆使し、その表現の周辺には蠱惑的な肉感的な魅力が漂っているにも関わらず、舞踊作品としてのその演出は明快である。拍手をするべきタイミングが、だれにでもわかる、自然と体が掌を合わせるタイミングを捕えるように、演出されている。
このように錯綜した表現の幾束かの方向性が、誰にでも教示しうる「娯楽性」に帰着している様態は、ロジックからすれば理解に苦しむが—感性からすると—新鮮で効果的である。
Ⅳ、表現技巧並びにその方向性の複雑さに対立する、作品演出の平明さについての疑問
「私」は、その錯綜を複雑なものだと思う。だが、現代思想をステイトメントとして使用する現代前衛舞踊でもない民族的な伝統舞踊が、なぜ、そのような複雑性を纏うのか? 私が、推測するに、それはおそらく、実はそもそも—複雑なもの—ではないからなのではないか? それが複雑だと感じるのは、実は単に「私」が—日本人—であるからなのではないか?
つまり、一足先に言ってしまえば、抽象と即物性、という概念、その感受性が、恐らく、我々日本人と彼らでは—そもそも—異なっているのではないか?
Ⅴ、両者の対比
私達は、韓国伝統舞踊よりも、肌を露出する。だが、露出させながら、自身の肉体に固着する「魅力」を抹消する。抹消した上で、肉体が自然現象や日常の所作に溶け込むように、抽象的表現を技巧的に配置し、そこから、その基盤から、現代の日本のアニメのような、或いはアメコミのスーパーヒーローのような、非・現実的なエンターテイメントを指向する。その方向性で400年の間、追求してきた技術性・芸術性ではなかろうか?とも思う。
だが、至極、当然のことながら、韓国伝統舞踊には、それはない。
身体を覆い隠した上で、部分的に身体を露出させるという点では、同じ要素を持っていながら、この両者の発展、その方向性は、全く異なるものなのではないか。
我々はどんなに残酷な表現(歌舞伎の演目の本来の演出においては、現代の感性では極めてグロテスクな演出がある)をしようとも、その身体に固着した情念から離れる。だが、彼の国の伝統舞踊は、非常に上品で、技巧的には実は抑制された表現手法手法をとりながら、反対に、その肉体にまとわりつく「情念」と「魅力」を、倍増させるべく、追求しているかのように、—「私」—には思える。
これらは私の、現状の「仮定」であるので、今後、全眼的に改定する可能性がある。切に、御批判、御指摘、御教授を望んでいます。
09/08 2022 黎和四年8月9日。
SJS 二代目・左門左兵衛 ここに記す。