『離見の見』その後

2024-03-26 UP!

『離見の見』は心理的コンプレックス反応を誘発する2  27/03推敲、校了。

 

 a,何故、神秘的なのか?まさにそれが『神秘』だからだ・・・

世阿弥の花伝書に、現代人からすると時折意味不可解な所があるが、その理由をまとめると大体以下の三点になる。

一、世阿弥自身が仏教の神秘思想である『密教』に耽溺しており、その用語を自らの著作で頻繁に使用したため。

二、そもそも論理的・説得的な論述をしないのは近世以前の東洋人の記した著作では珍しい事ではないから。『孫子』など、軍事書であるに関わらず具体的な戦史の分析が一切ない。

三、花伝書は『家伝書』でもあり、その意味で『秘伝』なのであり、誰にでも分かるように書くと、世阿弥の後継者や観世一門の優位性が崩れるだろうから。

これらの理由が常識的な考え方から導かれるものだろう。それこそ、論理的で説得的である。だが、世阿弥がその花伝書の中で『神秘的』としか言いようのない表現をした理由は、それだけではないだろうと考えているのが、実は私の『本音』である。

 

b,こうとしか言えない。

『音』の話をするのが嫌いである。特に、アマチュアさんやセミプロのダンサー/舞踊家、音楽家とその話をするのが極めて苦痛である。彼らは、鳴っている音のことしか知らない。それしか存在していないと思い込んでいる。だが、『音』は鳴る前から存在している。——三味線のバチが、糸をはじく前の、バチを動かす筋肉や腱の微細な運動・擦れる音。それを感知するのが、本当の『間』である。鳴っている『音』に合わせて踊るのは、子供の盆踊り。初歩的、教科書的なものである。それは・・・可愛らしいかも知れないが、拙い。大人が大人に対して、本当の感動を提供するものではない。

バチが糸を弾く前の、筋肉や腱の運動、その擦れた動き・・・これらは、聞こえないし『見えない』。だが、その聴こえなもしないし、見えもしないその<動き>を感知出来なければ、本当の『間』は作れない・・・これは『神秘』なのではないか?

結局、それは見えもしないし聞こえもしない。だが、はっきりとした実感を持って、<それ>が存在している事は分かる。経験的にそうなのであって、それを違う言葉で「説明」しろと言われても、それ以外の説明の仕方が思い浮かばない。

 

c,個人的かつ現状における推論/世阿弥について

聴こえもしないし、見えもしないもの。最近の人々は、それを無いものだという。イカサマではないかとすら罵る。だが、私達は知っている。見えもしないし、聴こえもしないものが、全てである、と。その身体「内」的な感覚を、あえて言葉にして説明しろと言われれば、『肉眼では見えない後ろ姿まで見えるのだ!』や『音波として成立する前の腱の動きが聴こえるのだ!』という言語表現に行き着く。それらは、論理的には破綻しているかも知れないが、そうとしか、実際には、言いようがないのである。

世阿弥の花伝書を読んでいると、時折、苛々することもある。もって回ったくだらない言い回しをして!と憤慨することもある。だが、それらの内の幾つかは・・・事実、そのようにしか表現出来なかった言葉達だったのではないか?と私は思う。

e,喰い物と芸術は異なる

世阿弥は「技術指南書」を書いて、自らと関係のない人々とコミュニケーションを取って仲良くなり金儲けをしようとと思っていたわけはない。だが、現代人は、どうも<それを>誤解している。現代のダンサー達は、技術系統や思想背景が全く異なるのに、「○○世阿弥論」と嬉々として駄文を書いている。売名行為やビジネス感覚でそうしているのだろうが、当の世阿弥にはそんな感覚はない。出版もしないし、拡散もしない。ただ自身の技術の到達点と芸術思想の覚書を、自らが発案した芸術表現の後継者たちに残しただけだ。

説得的でないと現代の人々はヒステリーを起こし、もっと誰にでもわかるように、誰にでも手に入るように、と望む。追証可能であり、再現可能なもの。そういった科学ベースの考え方が、現代では最も権威があり人々の信じるものだ。それ自体は優れている。その考え自体は理にかなっている。その知的態度を人は今後も失うべきではない。
だが、本当に人々は真に思考して、それを求めているのだろうか? その「説得的で誰にでも再現可能なもの」という観念は、暴走し始めているのではないか?メディで紹介される「○○説」「○○論」は誰にでも分かりやすく語られ人々はファッションを取り替えるようにそれらに嬉々として飛びつくが、飛びついた先の<それら>は大概が一般向けの詭弁である。マルクスを読まなくても共産主義は語れるし、環境問題に良識的なコメントは出来る。世阿弥の意図や真意を汲み取る努力をしなくても、世阿弥で商売することは可能だ。だが、その果てに起こる事象は、「内容」の喪失であろう。遠島後も自身の芸術表現を深化させ続けた世阿弥のような人物が、今後一切生まれなくなる世界が到来してしまう。その時、私達は意味を失った世界で、塵のようにただ舞うだけのことになる。

26/03 2024 SJS. 27/03推敲、校了。

左門左兵衛(二代目)




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