『離見の見』は、大抵、心理的コンプレックス反応を誘発して終わる
世阿弥が花伝書で記し、一般的に流行ったものの一つに『離見の見』がある。自分の行いを客観視せよ、という意味で人生訓のように取り扱われているが—私の実感では—この言葉に惹かれる者の多くは、自身を客観視する事に無縁な者が多い。
—踊り舞っている姿は、自分では見れない。だから観客の視点に一体化するように意識して、自分の体とその動きの前後左右を把握せよ。体の後ろに意識を置くようして、舞台・客席空間を俯瞰せよ。そうしないと「我」が出過ぎて動きが汚くなる—こういった意味で世阿弥は記しているのだが、その後に不思議な文言がある。(そのように意識すれば)体の前や左右は自分で見れるだろうが、その時の「後ろ姿」は見れないだろう。だが、それが見れるのが『離見の見』である・・・と。<字句通り>に読むと、幽体離脱的なオカルトである。人は、常に、オカルト/神秘に惹かれるものである。
世阿弥のこの一文は、神秘思想によく垣間見られる典型的な「秘密主義」だろう。そうするとこんな凄いことがある・・・だが、どうすればそうなるのか?についての具体的な説明が、ほぼない。そもそも、彼は、それを文章で説明する気がない。それを文章で説明し実際にはどういう意味の事なのかが分かるように記すと、その後に、観世座の優位性が崩れる恐れがあるからだろう。
このような神秘思想・秘密主義的な言い回しは魅力的で、人はそこに吸引される。だが、その文言を奉じたからといって、自分の舞踊技術が向上することは、恐らく、全く、ない。芸談聴いて上手くなった人間はいない、の通りである。世阿弥のその文言に具体性はなく、言うなれば、ただの「掛け声」にしか過ぎない。もし表現が飛躍的に向上した場合は・・・世阿弥の文言とは別に・・・それに類する技法・意識態度を自らの舞台経験の中で<既に開発していた>場合のみだろう。
洗礼を受けたからキリストになれるわけではないように・戒名貰ったから人格者になれるわけではないように—世阿弥が書いた花伝書の言葉を引っ掻き回しても—「表現」が向上するわけではない。恐らく彼は、書いたものとは別に、遠島前に、観世座の後継者に舞台袖でそれとなく・・・こうしろっ・・・と呟いている。その表には出ない「呟き」と神秘的な密教趣味の文言を重ね合わせて、ようやく彼が何を言いたかったのかが、分かる代物だろう。
或いは、その「呟き」は、言葉ではないかも知れない。怒っているような認めているような不穏な視線や、聞き取れなくらいのため息だったのかも知れない。「体で覚える」と人はよく言うが、それは、体を「運動」のように動かして反復練習に励む事では・・・実はない。生きている個体の優れた呼吸を知り、我知らず・その呼吸をし始める事だ。そのような過程を通してしか、世阿弥が<記した>ことの真意を理解する事は出来ないだろう。
そもそも・・・彼は一般に教えて「ワークショップ代金」を取る気なんて、何処にもないのだから・・・。「花伝書」や「芸」とは、経済分野の<サービス>ではない。
アンチョコは存在しない。答え合わせをする為の「答案」はどこにも存在しない。学問や産業的サービスではなく、芸術であるから、その個別性・例外性が存在価値となる。その地平に置いて何を獲得し花開かされるのかは、ただ、個人の資質に掛かっている。傾向やレギュレーションが芸術の産むのなら、70億人すべてがピカソであるが、それは、ただの屁理屈だ。理屈と技術は、異なるものだ。
19/03 2024 SJS.左門左兵衛(二代目)記す。